第1章 第3章

第2章 満映での李香蘭

   李香蘭こと山口淑子は、中国東北部(旧満州)、現在の遼寧省の省都瀋陽(旧奉天)近郊の北煙台の出身。 (註1)
 李香蘭の父、山口文雄は、佐賀県の出身。日露戦争後、中国に渡り、知人の紹介で満鉄に就職。その後、 煙台採炭所から撫順炭鉱に移った。中国語に堪能で、さらに風習や民意も理解していたため、 中国語や中国事情を教える傍ら、撫順県顧問のような仕事もしていた。
 李香蘭の母である石橋アイとは、撫順で知り合い結婚した。(註2)
 この章では、李香蘭のデビューまでの経緯とともに、満映における李香蘭出演作品、 そして、映画史上において幻の映画とも言われている「私の鶯」について見ていく。

 

第1節 李香蘭の満映デビューまで

 

1 李香蘭の命名

 李香蘭という名前は、関東軍が日本人を満州人の女優に仕立てるために付けた名前という説が一般的だが、 実際はそうではない。
 このことは、李香蘭の幼少時代に遡る事から始まる。
 李香蘭(本名 山口淑子)は幼少時代を撫順で送った。しかし、1932年9月、 後に国際連盟でも問題にされた平頂山事件(註3)において、 山口淑子の父山口文雄は通敵(敵に通ずる)、つまり裏切り行為の容疑で、憲兵隊に拘束取り調べを受け、 その後容疑は晴れたものの、撫順には居づらくなり、文雄はかねてからの友人であった中国人の 李際春(註4)を頼り奉天に生活の場を移した。その時、淑子は13才であった。
 奉天において、淑子は李際春将軍の養女となり、そこではじめて、李香蘭の名前は付けられた。 姓は「李」、名は文雄の俳号である「香蘭」をもらった。
 山口淑子は『李香蘭 私の半生』の中で、「李香蘭」の名前の印象について、 「中国音でいうならば「リイ・シャン・ラン」であり、この音楽的な表音の響きと、 漢字字画の「香」と「蘭」をかもしだす雰囲気を理解できるのは中国人だけかもしれない。」 と綴っている。(註5)
 当時女学校に通っていた李香蘭は、肺浸潤を患い自宅療養をしていた時期があった。 その時、ユダヤ系の白系ロシア人少女リューバ・モノソファ・グリーネッツに励まされている。
 肺浸潤が治ると、医師から呼吸器を鍛える健康を進められ、文雄は謡曲を進めたが、 李香蘭はどうしてもなじめず、リューバの助け船でクラシック歌曲を習うことにした。 そして、リューバに連れられ、イタリア人でオペラ歌手だったマダム・ポドレソフを訪ねた。 (註6)
 マダムのもとでレッスンを積むにつれて、歌唱力もついた李香蘭は、ある日リサイタルの 前座をつとめる事となった。その場所は、満鉄直営のヤマトホテルで、観客には日本人だけでなく、 中国人、ロシア人を含む奉天各界の名士がいた。
 リサイタル初出演の時、マダムのファンの一人である、奉天広播電台(放送局)の企画課長 東敬三が聴衆として来ていた。これが李香蘭が歌手デビューをする機運である。(註7)
 

2 歌手デビュー

 奉天放送局は1932年「満州国」誕生とともに開局し、森繁久彌をアナウンサーとして スタッフを充実にさせていたが、一般中国人を増やすため、翌年の1933年「満州新歌曲」 という番組を企画し、その専属歌手を探していた。
 専属歌手の条件としては、中国人少女であること、譜面が読めること、標準語の北京官話を話すこと、 日本人スタッフとの打ち合わせのため日本語も理解出来ることなどが挙がっていたが、これらの条件を 満たす中国人歌手はなかなか見つからない。
 そんな中で、たまたまリサイタルで李香蘭の歌を聞いた東が、専属歌手として李香蘭をスカウトした。 しかし、「満州新歌曲」の放送開始が迫る一方で、中国語の芸名がなかなか決まらず、 東に李香蘭という中国名とその名前の経緯を告げたところ、芸名は「李香蘭」と決まり、 「満州新歌曲」は回を重ねて放送された。すなわち、満州国同様、日本人の手で作られた 中国人の誕生となった。(註8)
 歌手としてデビューした李香蘭は、1934年北京に単身で留学をしている。
 その北京において、李香蘭は潘家の養女潘淑華として、翊教女学校に通学した。 淑華という名は、淑子の名前を生かすと同時に、潘家では娘たちに「華」を末尾つけていた。 つまり、家族同様の扱いをする為であった。(註9)
 北京に留学していたとき、李香蘭は日本人とほとんど接触する機会がなかった。 しかし、ある日、奉天の文雄のところに出入りしていた山家亨(註10)が 李香蘭を訪ね会いに来た。
 山家は映画、演劇、芸能関係とのつきあいが多く、奉天時代は奉天放送局の仕事もしており、 李香蘭のデビューする経緯も知っていた。また、満映の設立の仕事にも関係をしていた。 (註11)
 この山家との出会いこそが、李香蘭の満映デビューの起因と言ってもいいであろう。

 

第2節 李香蘭のデビューと処女作品

 山家は李香蘭とともに、満映の山梨稔と会うこととなった。
 当初、山梨は李香蘭が日本人であるとは知らず、中国人潘淑華で李香蘭が芸名としか思っていなかったようだ。 ちょうど満映が創立して1年後の1938年の事である。
 当時の満映では、発足以来、数本の劇映画を撮っているが、新しい企画として、主演女優が歌を うたうシーンの出てくる一種の音楽映画を検討していた。 ところが、その頃の満映の俳優は募集したばかりの新人、 言い換えれば素人ばかりで、歌をうたうどころか、吹き替えもできない状態だった。
 こんな状態のなかで、当時の制作部長だった牧野満男が、新京放送局で「満州新歌曲」を聞き、 牧野は軍の報道部を訪れ、国策のために李香蘭に、声の出演交渉を頼んだ。
 また山家と山梨の話と牧野との出会いによって、李香蘭は「蜜月快車」 (1939年公開)という作品で女優としてデビューを果たした。(註12)
 しかし、そこには、李香蘭はあくまでも中国人でなければならなかったこと、 そして、このことを知っているのは、満映の幹部や中国人であり、公的には中国人であり、 日本が中国人に対して考える、身勝手な理想像を投影し、作品内容もこのことが現れていた。 (註13)
 「蜜月快車」は日活の「のぞかれた花嫁」の翻訳物で、日本語のシナリオを中国語に直訳し、 新京から北京まで列車内の騒動を描いた喜劇である。(註14)
 この映画の撮影中に満映は山家を通じて、李香蘭の意思とはうらはらに、 奉天の両親に専属契約の了解を取り付け、「日満親善」を合い言葉として、 2作目、3作目の企画が打ち出され、(註15)同年満映作品には4作出演した。
 さらに、この年には東宝作品にも出演し、その作品も日本で公開され、 満映の李香蘭の評価は爆発的に高まった。(註16)
 

第3節 満映の主な李香蘭出演作

 李香蘭は最初の作品「蜜月快車」の後、満映作品(提携作品も含む)には10作品に出演している。
  1 「富貴春夢」(1939年)
 満映としては新企画の諷刺喜劇出現であり、百万円を貰った幾組もの人間が織りなす 物語をオムニバス映画で綴っている。(註17)

  2 「寃魂復仇」(1939年)
 歓喜懲悪もので満映初のお化け映画である。(註18)
 ただ、当時の満映は創立して間もないため、音楽映画である「蜜月快車」、初のオムニバス映画「富貴春夢」、 そして初のお化け映画「寃魂復仇」にしても全てが初の試みであったことは言うまでもない。 (註19)

  3 「東遊記」(1939年)
 日本ロケを東宝に協力し、満系国民に日本の紹介をする為に作られた異色作品。 助監督の朱文順が通訳を兼務し、出演者は満映側で劉恩甲・李香蘭らが、東宝側では、 霧立のぼる・原節子・高峰秀子・沢村貞子らがいる。(註20)

  4 「鉄血慧心」(1939年)
 馬をたくさん扱った作品の為、鞍山でロケを敢行した。 この作品は、「美しき犠牲」の題で日本でも公開された。(註21)

  5 「迎春花」(1942年)
 松竹との提携作品。日本と満州の家庭の友愛を重点に置いた作品で、「満州国」建国10周年慶祝映画である。
 今までの大陸を舞台とした日本映画では、日本の男性によって抗日的な娘が理解に目覚めるという パターンであったが、この作品においては、お互いに理解しあうという設定で作られている。
 また、この作品は日本でも公開され、奉天とハルビンのロケ場面が多く異国的な作品である。 (註22)

  6 「黄河」(1942年)
 周暁波監督が三年前から構想を練り、戦場と化した農村の惨状と氾濫する大河 と闘う農民の姿を描いたセミ・ドキュメンタリー映画である。
 当時の満映理事根岸寛一も傑作の太鼓判を押し、日本でも封切りすべく、 日本語のスーパーを入れ、松竹・東宝と交渉したが実現はしなかった。
 原因といえば、日本ではすでに大陸ブームが終わり、また内容的に暗く貧しい農民の姿や苦しい 戦闘が描かれたためであると言える。
 結果的に言えば、日本では一部の評判が伝わっただけの幻の映画で終わってしまった。 (註23)

  7 「サヨンの鐘」(1943年)
 台湾ロケを敢行した、松竹との提携作品である。(註24)
 台湾に対する日本の植民地政策、特に、文明化されていない先住の“山の民”高砂族の日本(軍国主義)化を 主題としたもので、その最前線の先兵であった警察官の動きを顕彰する映画である。
 李香蘭映画では、この作品は異色の作品であり、これまでの作品における李香蘭は、 日本人のヒーローの真情にふれ、愛するすなわち征服されるという過程を辿るといった 役柄で決まっていたが、この「サヨンの鐘」では、高砂族という非中国大陸民族で、 最初から日本化されていた。そこに李香蘭が単に中国を象徴する以上に、 欧米へのまなざしを封じられた日本人の、アジアに向けたエキゾチシズムを体現していた。 (註25)

  8 「誓ひの合唱」(1943年)
 北支の生活を描いた、東宝との提携作品。(註26)
  9 「私の鶯」(1943年)
 東宝との提携作品であるが、日本でも中国でも公開されなかったいわゆる幻の映画である。 原作は大佛次郎の『ハルビンの歌姫』である。このことは第4節で述べる。

  10 「萬世流芳」(1943年)
 阿片戦争によって南京条約締結を強いられ百周年目に因んだ企画で、 阿片撲滅の為、林則徐を描いた時代劇である。中華電影との提携で製作された。
 タイトルは林則徐の義挙は永遠(萬世)に薫りつづける(流芳)という史劇のさわりから用いられ 「萬世流芳」と決まった。
 中華電影は、もともと満映と違い、日本の大陸政策の意を体した宣伝的な映画は製作せず、 中国の映画会社が製作した映画の中から日中双方にとって納得できる作品を選んで、 中国国内の日本軍占領地域や日本内地へ配給・上映することを専業としていた。
 ところが1942年6月に、川喜多長政(註27)を委員長とする 大陸映画連盟の設立が進められ、当時中国にあった映画会社、満映・中華電影・華北電影、 三社間の交流を積極的にしようとした。
 しかし、翌年三社の力関係はあまりにも違いすぎ、結局この話は無期延期の状態で終結する。
 そんな中で、日本人の息のかかった映画を製作すべきという満映圧力が強かったためか、 満映の李香蘭を使った映画として中華電影・中華聨合製片公司(中国映画各社の統合組織)の協力で 「萬世流芳」を製作することとなった。
 中国人俳優の中には、「萬世流芳」が民族主義的愛国映画だったにも関わらず、 日本の息のかかった映画会社、すなわち満映・中華電影が背景にあることを不信に抱く者もいた。
 さらに、李香蘭さえもが1941年の日劇七周り半事件(註28)において、 日本人であることが一部に報じられた為、日本人であることを薄々気付いていた者もいる。
 だが、1943年6月に封切られると、中国映画始まって以来のヒット作品となる。 (註29)

 以上、満映(提携作品を含む)による李香蘭作品を見てきて、「蜜月快車」から「萬世流芳」の 約5年間における満映での李香蘭は、デビュー当初は、満映での作られた中国人、 あるいは作られたヒロインだが、年を重ねるに連れて、李香蘭という名前自体が満映のみならず、 中国そして日本において一本立ちをしていったと言える。
 しかし、この事とは裏腹に、李香蘭本人は心の中で、作られた中国人である事に、罪悪感を抱いた。 この事は「萬世流芳」の製作中に女優をやめることも考え、(註30) 1944年秋、甘粕に辞意を伝え、満映を退社していることでもはっきりする。
 さて、満映が製作した李香蘭作品の中で、現在映像として見られるものは、 この11作品中、3作品(「迎春花」・「サヨンの鐘」・「私の鶯」)しかない。 中でも注目すべきは、東宝との提携作品でありながら、中国でも日本でも一度も公開されなかった 作品「私の鶯」であろう。
 ただ当時のオリジナル版とは違い、十数分カットはされているものしか残っていない。
 この「私の鶯」が上映されなかった理由とは一体なんなのか、次の節で見ていく。
 

第4節 幻の映画「私の鶯」

   満映の映画史上、幻の映画と言われるものには、先述した「黄河」と「私の鶯」がある。 特にこの「私の鶯」は、満映が日本の映画会社である東宝と提携を組みながらも、 満州でも日本でも一度も上映されなかった事で、映画史において幻の映画と言われている。
 

1 「私の鶯」の概略

 この「私の鶯」が、今まで一度も上映されていないかというと、そうではない。
 1984年に「私の鶯」のフィルムが大阪で発見された、1986年6月、 東京・安田生命ホールで一般公開されている。タイトルは「運命の歌姫」に変わり、 製作された当時の2時間の大作は1時間10分と50分もカットされていた。(註31)
 そして、現在はオリジナル版から10数分カットをした100分ものがビデオとしても残り、 見ることができる。(註32)
 さらに、雑誌『月刊ミュージカル』には、「私の鶯」に関わっていた二人の人物のコメントが載せられている。 一人は映画で主人公満里子の父親、隅田清の親友を演じた進藤英太郎氏と、もう一人は映画の音楽を担当した 服部良一氏である。
 進藤英太郎は、「前略 当時の金で40万円もかけたという特作で、劇中には歌劇『ファウスト』があり、 オペレッタがあり、山口淑子さんを始め、ロシアの名優のボリュームある歌声が随所に聞かれる、 大変バラエティに富んだ楽しい映画であった。
中略 終戦前、東宝で、ロシア語の部分を日本語に入れ換えて公開するような話があり、 再編集されたようにも聞いていた。それが国際関係から遂に国内では公開されず、 今日に至っているが、最近は日米合作映画も各方面で製作公開されているし、 ソ連の映画も封切られている折柄、適当に編集して公開出来ないものであろうか。 思い出多い映画だけに忘れ難いし、出来ればみたいものである。」と書かれており、一方、 服部良一は「東宝・満映共作の『誓いの合唱』のあと、満映の『私の鶯』がある。 このときは、島津保次郎監督とハルビンへ渡って仕事をした。 ハルビン交響楽団の指揮者シュワイコフスキーをはじめ、全楽員の協力で楽しく現地録音することができた。」 と書かれている。
 この二人のコメントからも、戦争末期であるにも拘わらず、巨額の制作費を投じた大作であり、 日本でも数少ない「音楽映画」の貴重な一本であることがわかる。(註33)
 

2 映画企画意図

 この映画は、監督の島津保次郎(註34)が来日したハルビン・バレエ団の舞台に感激し、 親友岩崎昶(註35)とミュージカル映画の夢について語り構想を練っていたことから始まる。 そして二人のパトロン的存在だった東宝の製作担当重役、森岩雄の政治力で、東宝と満映に働きかけた結果、 満映作品という名目として製作にとりかかった。(註36)
 この当時はミュージカル映画という言葉の概念はなく、音楽映画と呼ばれていたが、 西洋の“適性音楽”を盛り込んだ、当時の日本映画にとって、初の本格的音楽映画といえるであろう。 (註37)
 島津監督は脚本も携わり、日本語で書かれた脚本は、即翻訳され、 助監督には満映の池田督(註38)、ロシア・日本・中国の3カ国語が 話せる李雨時が起用された。そのほかに、専門通訳として白系ロシア人が二人雇われていた。 (註39)
 

3 作品の特徴

 「私の鶯」は満映作品というものの、実質的には東宝作品ともいえる。このことは、主要スタッフである 監督・脚本の島津をはじめとして、撮影・福島宏、音楽・服部良一といったところからも見えてくる。 (註40)さらに、当時、ふつうの映画作品の制作費が当時の金額で5万円に対し、 その5倍の25万円、現在の金額に換算すると約5億円位(註41)が 投じられた大作に仕上がったこと(註42)、原作に大佛次郎の「ハルビンの歌姫」が 用いられたこと、帝政ロシアが1898年に建設した国際都市であるハルビンで、 この映画の撮影が敢行された事も特徴に挙げられる。
 当時のハルビンは、ロシア革命から亡命した白系ロシア人が集結したヨーロッパ風の都市で、 東洋の小パリと言われた。(註43)また、図−1のグラフからも推測できるように、 1937年の段階において、日本人が総人口(457,980人)の5.8%(約2万6500人)、 ロシア人が5.6%(約2万5600人)、中国人が84.8%(約38万8300人)いたことからも、 様々な民族やイデオロギーが入り乱れる国際都市であったことがわかる。 ちなみにその他にあたる民族には、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリアなどの三十数カ国 及んでいた。(註44)


図−1 宮川善造著 『満州国のJ族複合状態』より作成  

4 原作と作品のストーリー

 映画のストーリー的には、次の通りである。ここに記述するのは山口淑子・藤原作弥の『李香蘭 私の半生』からの 要約である。

   1917年、ロシア革命によって満州へ亡命した白系ロシア人オペラ歌手たちが、 ある町で日本商社の支店長隅田(黒井洵)一家に救われるが、その町も戦闘に巻き込まれ、町を脱出する。
 その途中、隅田は妻(千葉早智子)や娘の満里子とはぐれ、隅田は中国各地を探しまわる。
 そうして15年が経ち、妻は病死、満里子はオペラ歌手ディミトリー(グリゴリー・サヤーピン)の養女マリヤ となり、ハルビンに住んでいた。
 マリヤはロシア人音楽会で「私の鶯」をうたい好評を博してデビューするが、満州事変勃発後、 ハルビンは混乱にさらされる。
 その後、隅田の友人の実業家(進藤英太郎)によって、隅田は娘と再会をするが、ディミトリーの気持ちを察し、 娘を娘を引き取らなかった。
 そんな中で、病で倒れていたディミトリーはオペラ劇場に復帰が決まるが、 歌劇「ファウスト」を最後とし倒れてしまう。
 ロシア墓地に詣でた満里子は、ディミトリーの墓前で「私の鶯」をうたい、冥福を祈るのだった・・・。

     「私の鶯」の原作は前掲もしたように大佛次郎の「ハルビンの歌姫」が用いられた。
 1993年12月に発行された『朱夏』6号には、当時のロシア語の翻訳者、 新妻二朗(註45)の娘、萬里子の対談が掲載されており、その中で、 大佛次郎の事についても触れている。その対談から『私の鶯』の主人公マリ子の設定が酷似している事、 当時、大佛が新妻の所によく出入りしていたことから、『私の鶯』の原作「ハルビンの歌姫」では、 新妻二朗、萬里子をモデルにしたと考えられる。
 しかしながら、『朱夏』にも書かれているが、この「ハルビンの歌姫」が、当時、新聞に掲載された 記録や原作が現存しない点から断定できないのが惜しいところでもある。(註46)
 

5 上映禁止の背景・事情

 このようなストーリーの映画が当時、なぜ上映されなかったのか、1943年当時の日本は、 戦争の敗北の勢いがはっきりしていた段階であり、日本国内の映画はほぼ完全に戦意高揚一色に 塗りつぶされていた。そういった中で『無法松の一生』や『姿三四郎』といった、 戦争とは無関係の人情映画や娯楽映画もあったが、当時、適性音楽とされた西洋歌曲、 とくにロシア歌曲をふんだんに歌いまくる映画など、日本では企画されるはずもなかった。 その企画が満映で可能だったのは、満州では白系ロシア人もまた満州国家の構成員だったからともいえる。 (註47)
 そして上映禁止の事情について、坪井は「反革命のロシア人が多く出演していたため、 何か政治的理由があるらしい」と言っている。(註48) また、『日本映画史』(岩波書店)の著者佐藤忠男は「戦争も破滅的な状況になり、 映画にはもっぱら戦意高揚が求められた時期、ミュージカル映画へのノスタルジーに浸っているような 作品の公開は情報局の気に入らなかったところなのかもしれない」と、さらに、関東軍司令報道部により 「国策にそわない満映映画」という判定が下され、また共同製作者としての東宝も内務省検閲は所詮パスしまいと、 あきらめたという事も言われている。(註49)
 そして、もう一つの事実として、『李香蘭 私の半生』の中に次の事が書かれている。
 通訳として雇われていた白系ロシア人の内、一人の青年がソ連政府がハルビンに放ったスパイだった。 (註50)
 その青年は、満映で音楽を担当していた竹内林次に「李香蘭の素性と行動を調べる使命をおび、 彼女が日本人であることリューバやポドレソフからロシア語を習った事など全て知っていた」とうち明けている。
 また「私の鶯」のフィルムが発見後に島津監督と池田助監督は再会をし、このとき「日本は必ず戦争に負ける。 負けるからこそ、よい芸術映画を残しておかなければならない。やがてアメリカ軍が日本を占領したとき、 日本は戦争映画だけでなく、欧米の名画にも負けない秀れた芸術映画を作っていたという証拠を残しておきたかった」 と言っている。(註51)
 たしかに、スパイがいたこと、そして日本が敗れる事から考えると、1943年すなわち 日本として戦局が悪化している時に、芸術作品を鑑賞するという余裕があったのだろうか。 さらに、こうした大掛かりな作品を作り大衆を楽しませる目的があったのだろうか。
 企画の段階から鑑賞させる映画というより、映像から推測すると記録映画的な意図がかなり 高かったような印象も受ける。つまり、国策にそわない事は兼ねてから承知の上で製作に踏み切ったとも言える。
   

6 映像からの考察

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 全体的な作りとしてはストーリー性はあるものの、当時の中国の土地情景などを収めた 記録的なところもあるものと伺える。
 例えば、隅田が離ればなれとなった妻と娘を探すために中国各地を巡るシーンである。

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 また、国策映画として作られた部分としては、やはり満州事変のシーンであろう。 そして「満州国」の建国を記す字幕は、満映の製作を意図するところではと伺える。

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 ロシア人の養女として育てられた満里子の姿、ラストの満里子の姿は雰囲気の差異は東宝が提携している という事を意味しているとところであろう。さらに、台本では、ハルビンで知り合った青年と日本の事に ついて話すところがあり、浅草・大阪・富士山といった日本の情景をも、盛り込んでいるが、 100分に編集されたものには、そこの部分がカットされている。(註52)
 そのため、満里子を最後まで日本人に戻されていない。そこに、李香蘭が作られた中国人、また、 満映の李香蘭の終演を告げる意図が込められていたのではないかと伺える。

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上記2枚は養女の姿・下記1枚はラストの姿である。

音楽会のシーンにおいて、ロシア民謡、コザック楽団を入れている。ロシア人を多く出演させ、 しかもロシア文化も織り込まぜたところは、坪井がいう反革命を意識してなのだろうか。 やはり、上映を目的としてなかったようなところが伺える。

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 満映と東宝の提携を知った上でも、全編に流れるロシア音楽、ロシア語のセリフなどから 無国籍的な作品と仕上がっている。
 しかし、実際、この映画の国籍は「満州国」であった。戦後「満州国」は消滅し、 実質的にも映画「私の鶯」自体も無国籍となってしまった。
 「満州国」は消滅後、旧主国の中国に帰属し、理論的には、中国国籍の映画とも考えられるが、 敗戦国日本にとって、中国は勝戦国であったため、正式な輸入手続きをしようにも、 その相手国が無かった。(註53)このことも、 この「私の鶯」が無国籍的といえる一理由といって過言ではないであろう。


−註 釈−
註1  山口淑子 藤原作弥『李香蘭 私の半生』 P9
註2  同 上 P11〜P12
註3  抗日ゲリラの襲撃を受けた日本軍の撫順守備隊が、平頂山部落の中国人 住民を大量殺害し、後に国際連盟でも問題にされた事件の一つである。『李香蘭私の半生』参照)
註4  山東省に勢力を持っていた親日派軍閥で、奉天特務機関長・土肥原賢二 大佐に協力し、満州国建設や関東軍の華北工作に積極的に参加した人物である。 (『李香蘭 私の半生』参照)
註5  前掲『李香蘭 私の半生』 P23〜P38
註6  同 上 P40〜P43
註7  同 上 P46〜P49
註8  同 上 P49〜P51
註9  同 上 P65
註10 当時、関東軍報道部に在職していた。
註11 前掲『李香蘭 私の半生』 P81〜P85
註12 同 上 P101〜P109
註13 山口猛『幻のキネマ 満映』 P62
註14 前掲『李香蘭 私の半生』 P109
註15 同 上 P110〜P111
註16 前掲『幻のキネマ 満映』 P62
註17 坪井與「満洲映画協会の回想」(映画史研究 bP9、1984年、P10)
註18 同 上 P10
註19 前掲『李香蘭 私の半生』 P111
註20 前掲『映画史研究 bP9』 P10
註21 同 上 P11
註22 同 上 P12
    「李香蘭」(『毎日グラフ 別冊』 1991年6月 P176)
    「テンシャープ」発売元のビデオパンフレット 「満州の記録」の資料
註23 前掲『映画史研究 bP9』 P41
    前掲『毎日グラフ 別冊』 P176
    前掲『李香蘭 私の半生』 P255、P269
註24 前掲『毎日グラフ 別冊』 P176
註25 『キネマの世紀』 P82〜P83
註26 前掲『毎日グラフ 別冊』 P176
註27 1903年生まれ。ドイツに留学し帰国後、東和商事合資会社を設立、 欧州映画の輸入をはじめた。1938年には、後の満映スター徐聡主演の『東洋平和の道』の製作に携わる。 この映画は東洋の平和・親善を目的としたが、中国では日本の国策映画として、 中国映画人の抗日運動に火をつける結果となる。1981年没。(『幻のキネマ 満映』参照)
註28 1941年、李香蘭が日本に来日していた時、日劇の周囲を7周り半もの 観客が取り巻き騒動となった事件である。このことが発端で、「李香蘭は日本人」であるという報道も出た。
註29  前掲『映画史研究 bP9』 P50
     前掲『幻のキネマ 満映』 P189〜P195
     前掲『李香蘭 私の半生』 P285〜P297
註30  同 上 P297
註31  同 上 P279
註32  「東宝通販サービス」から100分ものがビデオとして購入できる。
註33  両者のコメントは、雑誌『月刊ミュージカル』11号によるものである。(P−R−24) 進藤英太郎氏の方は、昭和27年9月26日の東京新聞夕刊のコラム欄の紹介記事。 服部良一氏の方は、昭和57年10月1日に発刊された自伝『ぼくの音楽人生』から紹介記事である。
註34  1897年生まれ。1920年、松竹キネマ合名社に設立と同時に入 社。関西新派の芝居台本をもとにつくった『寂しき人々』が第1回作品である。 その後、1939年の『兄とその妹』が完成後、松竹から東宝に移るが、作品的にはふるわず、1945年没する。 (『幻のキネマ 満映』参照) 註35  1903年生まれ。東京帝大卒業後、「キネマ旬報」誌を中心に映画 理論家・評論家として執筆活動に専念する。1929年、日本プロレタリア映画同盟の創立に参加、 記録映画の製作に携わるとともに、委員長も務めた。 1940年、治安維持法違反で検挙され、出獄後に満映嘱託となる。戦後は評論活動のかたわら、 日本映画社製作局長、また新星映画社を創立した。1981年没。(『幻のキネマ 満映』参照)
註36  前掲『李香蘭 私の半生』 P269
註37  同 上 P275
註38  「私の鶯」で助監督を務め、翌年には監督として作品も製作している。
註39  前掲『李香蘭 私の半生』 P271
註40  同 上 P269
註41  東洋経済新報社発行の『完結 昭和国勢総覧 第三巻』P56
 「国家公務員と3公社5現業職員の初任給」の表から割り出した数字で ある。1937年当時、大学卒の国家公務員の初任給が75円だったため、 その数を基準として現在に換算すると約5億円と推測される。
註42  前掲『月刊ミュージカル』11号 P−R−22
註43  前掲『李香蘭 私の半生』 P271〜P278
註44  別冊歴史読本『満州帝国の興亡』 P40
     宮川善造『満州国のJ族複合状態』 P146
     「主要都會人口J族複合率」からの作成。
 1938年には、総人口460,206人、うち日本人は約2万8500人、ロシア人は約2万5300人、 中国人は約39万4300人いた。
註45  1894年、横須賀で出生。陸軍士官学校15期生。 1918年、ウラジオに在って中尉として軍務に携わるも、 現役免除となって一民間人となり、かねて親しくしていたロシア人 女性と結婚。日本に帰国後、満州へ出かけ1934年まで、日魯漁業に勤務していた。 (『朱夏』6号 P51 参照)
註46  『朱夏』6号 P37〜38
註47  佐藤忠男『キネマと砲聲 日本映画前史』 P197
註48  前掲「満洲映画協会の回想」 P59
註49  中薗英助「満映 興亡の小史」(『満州国と関東軍』 新人物往来社 1994年 P97)
註50  各国のスパイが工作と駆け引きを繰り広げていたことについて、 『李香蘭 私の半生』の中で、明治日本の満蒙スパイの先駆者・石光真清 の『曠野の花』が詳しいと紹介している。また、1998年5月に NHKの衛星放送でもドラマ化されている。
註51  前掲『李香蘭 私の半生』 P277〜280
註52 『日本映画』1943年6月号 P126〜P127
註53  前掲『月刊ミュージカル』11号 P−R−25
 

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